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糸女覚え書
- Narrated by: 斉藤 範子
- Length: 30 mins
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Summary
代々江戸城の茶室を管理し、将軍や大名に茶の接待をする「奥坊主」と呼ばれる職を務めた家柄に育ち、文芸や芸事への興味・関心を早くから持っていた芥川龍之介。
才気にあふれ、世話好きな性格は周りの人々を惹きつけ、たくさん悩みながらもよく笑い、よくしゃべる人だったそうです。
そんな芥川は、東京帝国大学に入学した翌年、高校の同級だった久米正雄らと共に第三次「新思潮」を創刊し、小説や翻訳を発表しました。
次いで第四次「新思潮」を創刊の際に掲載した『鼻』が夏目漱石に認められ、文壇に登ることとなりました。
その後新聞社に入社し、記者としてではなく専業作家として意欲的に執筆活動を続けました。
芥川は、漱石や森鴎外から文体や表現の影響を受けたり、キリシタンもの、江戸を舞台にしたものなど題材に応じて文体を変えたりと、意識的な小説の書き方をしていました。
また、鈴木三重吉により創刊された児童雑誌「赤い鳥」には、初となる童話作品『蜘蛛の糸』を発表、その後も同雑誌を中心に童話作品を相次いで発表し、幅広く作品を世に残しています。
秀林院様(細川越中守忠興の夫人、秀林院殿華屋宗玉大姉はその法諡なり)のお果てなされ候次第のこと。
一、石田治部少の乱の年、即ち慶長五年七月十日、わたくし父魚屋清左衛門、大阪玉造のお屋敷へ参り、「かなりや」十羽、秀林院様へ献上仕り候。秀林院様はよろづ南蛮渡りをお好み遊ばされ候間、おん悦び斜めならず、わたくしも面目を施し候。尤も御所持の御什器のうちには贋物も数かず有之、この「かなりや」ほど確かなる品は一つも御所持御座なく候。その節父の申し候は、涼風の立ち次第秀林院様へお暇を願ひ、嫁入り致させ候べしとのことに御座候。
わたくしももはや三年あまり、御奉公致し居り候へども、秀林院様は少しもお優しきところ無之、賢女ぶらるることを第一となされ候へば、お側に居り候ても、浮きたる話などは相成らず、兎角気のつまるばかりに候間、父の言葉を聞きし時は天へも昇る心地致し候。この日も秀林院様の仰せられ候は、日本国の女の智慧浅きは横文字の本を読まぬゆゑのよし、来世は必ず南蛮国の大名へお輿入れなさるべしと存じ上げ候……
才気にあふれ、世話好きな性格は周りの人々を惹きつけ、たくさん悩みながらもよく笑い、よくしゃべる人だったそうです。
そんな芥川は、東京帝国大学に入学した翌年、高校の同級だった久米正雄らと共に第三次「新思潮」を創刊し、小説や翻訳を発表しました。
次いで第四次「新思潮」を創刊の際に掲載した『鼻』が夏目漱石に認められ、文壇に登ることとなりました。
その後新聞社に入社し、記者としてではなく専業作家として意欲的に執筆活動を続けました。
芥川は、漱石や森鴎外から文体や表現の影響を受けたり、キリシタンもの、江戸を舞台にしたものなど題材に応じて文体を変えたりと、意識的な小説の書き方をしていました。
また、鈴木三重吉により創刊された児童雑誌「赤い鳥」には、初となる童話作品『蜘蛛の糸』を発表、その後も同雑誌を中心に童話作品を相次いで発表し、幅広く作品を世に残しています。
秀林院様(細川越中守忠興の夫人、秀林院殿華屋宗玉大姉はその法諡なり)のお果てなされ候次第のこと。
一、石田治部少の乱の年、即ち慶長五年七月十日、わたくし父魚屋清左衛門、大阪玉造のお屋敷へ参り、「かなりや」十羽、秀林院様へ献上仕り候。秀林院様はよろづ南蛮渡りをお好み遊ばされ候間、おん悦び斜めならず、わたくしも面目を施し候。尤も御所持の御什器のうちには贋物も数かず有之、この「かなりや」ほど確かなる品は一つも御所持御座なく候。その節父の申し候は、涼風の立ち次第秀林院様へお暇を願ひ、嫁入り致させ候べしとのことに御座候。
わたくしももはや三年あまり、御奉公致し居り候へども、秀林院様は少しもお優しきところ無之、賢女ぶらるることを第一となされ候へば、お側に居り候ても、浮きたる話などは相成らず、兎角気のつまるばかりに候間、父の言葉を聞きし時は天へも昇る心地致し候。この日も秀林院様の仰せられ候は、日本国の女の智慧浅きは横文字の本を読まぬゆゑのよし、来世は必ず南蛮国の大名へお輿入れなさるべしと存じ上げ候……
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